ニーチェと弱さとマゾと権力への意志 ― 負けることに幸せを感じるんだ・・・

創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖

http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20091127/1259268295

あまり関係はないけど宮台氏の「マゾは権力への意志である」って対談を思い出した。
適当にコピペ。

マゾは権力への意志である

宮台真司VS観念絵夢(SM男優)
http://m-kaneko.sexdrug.jp/yajyuu.html

宮台 「(対談相手のマゾに対して)別にホメ殺しじゃないんですけど、観念さんは世界の真理に通じていると思いましたよ。
いろいろ書いてるけど、要するに一言で言うと、“マゾは偉い”ってことでしょう?」
 
宮台 「まず僕の理解だと、

“マゾは負けることこそが快感、つまり負けるが勝ちだから、結局、誰にも負けないしスゴイ”と。

だからマゾが一番強いんだと。
あと、ある意味で誰よりもうしろに引いているから、世界を一番客観的に見られるという。
簡単に言えば、世界を所有できるって感じなのかな?自分の掌の中に。」
 
(中略)
 
宮台 「イジメる側にまわりたいとか、全然そういうのはなかったの?」
 
観念(対談相手のマゾの人) 「いや、そんなことは思わなくて、やっぱりガンジーだなとか思ってたから。

ボクがイジメられれば、みんな喜ぶんだから。イジメてくれたほうが嬉しかったですよ。

編集者 「目分がイジメられてることが家庭不和の原因だとしたら、イジメられないようにしようとか、そういう建設的な努力はしなかったんですか?」

宮台 「やっぱりそういうのをしなかった。だからたぶん、イジメられているのが似合いだと思っていたわけですよね。建設するよりもただ受けとめていると。」

(中略)

宮台 「ニーチェには“強者になりたがっているヤツが一番の弱者だ”という発想があるわけ。」


宮台  「でもね、言ってみると、負けるが勝ちの思想ってのは、すごくしょぼい話であると同時に、すごく崇高なものでもあるわけで。
結局、ニーチェは“哲学者なんて負けるが勝ちじやないか”って言ったんだけど、ニーチェはそう言っておきながら、自分が哲学者だってこともよく自覚してて、やっぱり負けるが勝ちの張本人なわけだよ。
 だからしょぼいように見えてすごい、すごいように見えてしょぼいっていうのが、観念さんとニーチェに共通する面白さなんだよね。」

(中略)

宮台 「そう。世界の真理を体現してるんだよ。やっぱり僕の直観は間違ってなかった。でも、まあ本人は自覚していないでしょうけど。

観念  「世界ということで言えば、ボクはユダヤ人よりロシア人の方がよっぽど可哀相だと思うんですよ。ロシア人は代償を求めないマゾなんです。そこでさっきも言ったように、マゾっていうのは強さを求めるんですよ。どうせイジメるんだったら、本当に強いものであって欲しいと思うし…。」

宮台 「どうせイジメられるなら、強い奴に代償抜きで徹底してイジメられたいと。」

観念 「うん。マゾってのは力に対する思想だから。」

宮台 「はっきり言ったね。僕は、それを聞ければ一つの収穫だと思ったんだよ。マゾってのは明らかに権力への意志だと言ってもらえればいいなって。」

観念  「つまり一つ言えるのは、MがいなかったらSが成り立たないし、SがいなかったらMが成り立たないっていう。そういう世界であるわけです。
だから、なんていうか、被害者意識たっぷりの代償を求めるマゾが作った社会は、もういい加減にして欲しいと思ったりしますよ。」

宮台 「つまり中途半端に代償を求めるマゾは中途半端な存在で、代償を求めないマゾになればなるほど力に近づくと。より強くなると。世界を所有できると。そういう思想なんだな。

ということで、観念絵夢はひょっとしたら、しよぼいようで崇高かもしれない、崇高なようでしょぼいかもしれない、その意味で世界そのものだという結論が出たわけだ。」

話題の記事とは関係ないですが、この対談を読んでから(↑の対談の理解はできていませんが)、笑い者になっている自分の境遇も多少は意義があるように思え、「死にたい」という衝動はかなり減りましたねw

弱者が社会に助けや不満をいくら叫んでも応えてはくれないならマゾになるしかない。
中傷され、罵倒される自分でも、人類や社会の幸福や弱さへの恨みに貢献しているのだと開き直るしかない。

「キモイ」という言葉がなくなる社会より、「キモイ」と言われ思われることを誇れる社会になってくれることを願います。
馬鹿な僕にはそれしか中傷に対する対策は思いつかない。