【哲学】 サルにもわかるフッサールの現象学講座 1 【学術】

サルにもわかるフッサール現象学講座

http://piza.2ch.net/log2/test/read.cgi/philo/948505749/

1 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/01/22(土) 10:49

教えてくださいね

2 名前:カヴァイエス[] 投稿日:2000/01/22(土) 11:02

サルはすでに現象学的還元を身につけていると思われるが、

その経験を知的な形で伝達するには人間にまで進化して形相的還元を

行う必要がある。

エトムント・フッサール(Edmund Husserl

オーストリアの数学者・哲学者である。

初めは数学基礎論の研究者であったが、

哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、

全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB

4 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/23(日) 02:34

よっしゃ、ワシが教えたろ。

現象学ちゅうのはよーするに

「主観は如何にして客観を認識するのか」そんで、

「主観=客観」をどう保証するのか、というのが第一の課題なんや。

 
で、現象学の出発点は主観が客観とイコールになることは絶対に無いってこと、

要は「真理は無い」ちゅうテーゼを認める事から始まるんや。

このことを現象学用語では「エポケー」って言うんや。

エポケー(epokhế)

原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC

そやけど

いくら「客観」が無いって言われても、

ワシらはフツーに「客観」を当たり前に「あるもの(存在するもの)」として生活しとるわな。何でや?

その疑問に答えとる哲学が現象学なんや

唯一現象学だけといってもええ。
 
他の哲学、例えば現象学より前の哲学では

「真理」つまり「主観=客観」を保証する為にはどーすればええんか?

ということを必死こいて考えとった。
 
ニーチェがそれをぶち壊して以来、フーコーとかデリタあたりが受け継いで、「主観≠客観」ということを
徹底的に証明してみせ、何と言うか「主体批判」みたいなところまで行きよった。
それまでの西欧の伝統的な形而上哲学は全部アホらしいっちゅうことで、切り捨
てて「反=ロゴス中心主義」というもんをぶち上げたわけや。
これがまあ俗に言うポストモダンいうやっちゃ。
 
でもな、ポストモダンにしろなんにしろ、真理が無いことや「主観≠客観」という
ことはえらい緻密に考えよったけど、ワシらがごくフツーに「客観」をあるものとして生活しとることの疑問には答えてくれへんのや。
そのことを「驚き」とか「戯れ」とか「パラドキシカルジャンプ」とか訳の分からへん言葉で機嫌とっとる
だけや。
 
なんやカキコが長ごーなってもたんで、現象学がそれをどう解いたかは、
またの機会や。分かる奴は書いてええど。ワシ採点したる。

5 名前:>4[] 投稿日:2000/01/23(日) 03:24

仏教でいうところの自我の無い無常観のように思える。
つまり自我を強調するデカルト以降の西欧哲学を否定したのかな?

ところで、現象学のあとにポストモダンがあるんじゃないの?
現象学がどう解いたかっていうことは、
ポストモダン現象学をまだ越えていないってこと?

すいません。全然わかりません。

12 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/24(月) 02:02


5

>ところで、現象学のあとにポストモダンがあるんじゃないの?

そうや。

現象学がどう解いたかっていうことは、
ポストモダン現象学をまだ越えていないってこと?

ちゅうかデリタは現象学を批判しとる(『声と現象』)。

>つまり人間がもつ主観というか認識力では周囲のことを
>誤りなく完全に理解するのは原理的に不可能みたいな。

そんなん現代思想では常識や。反形而上学ちゅうのはそういうこっちゃ。

自然科学は進歩しとるけど哲学は進歩しとらんてか?

そんなことないで。哲学も進歩しとる。簡単に言うたら実在論(主観=客観)から認識論(主観≠客観)へ進歩した。

科学は実在論のままや。当たり前やけどな。



基本的に科学ゆうのは数学を基礎として仮説と実験を繰り返して得られたもの、つまり一定の「文法」に則ってコード化されたもんや。
それは利用可能性があるいうだけで真理とはちゃう。
バカな科学屋はそんなこと気づいとらへんけどな。
科学で得られたモンは真実やと思うてけつかる。
オメデタイこっちゃ。
そもそも科学と哲学ではレベルがちゃうやろ。
哲学は科学のその本来の役割を指し示すことが仕事で、
科学の方は科学の方でその生理に則って何処まででも進歩したらええ。

41 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:55

>9

>「対象」の成立の裏にカントの物自体みたいなものは想定しないという点
>では、ある意味では「客観」を否定しているとも言えるかもしれませんが

ワシの言うとることは、そういうことやがな。
西欧哲学では「主客の一致」のことを伝統的に「真理」って言うとんのや。
竹田セイジ云々の話やないで(笑)。
言葉面なんかどうでもええけど、それを受け継いでしゃべらんことには、哲学者が一人一人が孤立してまう。

正直いうてフッサールだけ読んでもしょうがないで。
しょうがないこともないけど、フッサール専門家の本が訳わからん理由はそれが他の哲学者の言うと
ることどう綱がっとるのかが分からん為や。フッサールは独自の言葉をぎょうさん作りよった。
現象学を齧っとる最中のヤツなんかは、その意味がわかることだけで嬉しゅうて、だんだんと現象学にはまり込んでくんや。ワシもそやった。

現象学思想の性質上(主観がすべてみたいな)、他の哲学の問題設定を無視すると現象学という思想は、孤立した迷宮のようなもんになってまうんや。

サルには到底分からんやろ。サルにも分かるようにするには、それまでの多くの
哲学の問題設定を通分して、その中での現象学の位置付けをやらんことには、
言葉遊びになるんや。ボクのいっている「〇〇」は、そう意味ではなくこういう
意味なんです、とかな。学者の戯言は殆どその作業に費やされとる。「学者根性」
いうやっちゃ。

「言語の自己言及性」なんてもんを持ち出さんでも、言葉みたいなもんは矛盾を
(意図的に)作りだして、それでも整合性を保てるというというえらい武器なんや。
哲学オタクはそういった言葉を駆使する。そりゃ面倒臭くもなるわな(笑)。
このスレッドは「知識」自慢大会やない。そやし、そんなこと無理して書かんで
ええで。ワシもノーサンキューや。
 

42 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:57
>37〜39or ALL
「物の認識」についてや。
徹底的に噛み砕いて説明する。
31で引用したフッサールの言葉を読んでくれ。
「物の認識」ゆうのは主観の中に現れるわけやから、それは「物そのもの」とは違う。

それじゃあ我々は、認識と「物そのもの」の一致をどうやって確定しているのか、ということが問題や

しかしやな、一切の認識は主観なんやから、認識が主観を飛び越えて「物そのもの」
に達するゆうことはあらへん。
そしたら、認識は主観の内部に留まったままで、何らかの「確定」を得とるわけや。。。。。

茶店でコーヒーが出されて、それを飲んだとしよ。

しかし、それが本当のコーヒーがどうかはわからへんで。

もしかしたら科学的に調合された黒い液体かも知らん。

その可能性は、哲学的に考えることの権利として残されとる。

つまりそのことが何を意味するかというと、「物そのもの」を正確に認識することは出来へんとゆうことや(主観≠客観)。

そこで、現象学ではこう考える。

《確かにこれは、コーヒーではない別の液体だという可能性を否定することは出来ない。
しかしその液体を飲んで「美味かった」「熱くてコーヒーの味がした」という感覚や感情は否定できない。否定のしようが無い。
そしたら別にその液体が「本当のところ」なんであろうと我々の知ったことではない。》

現象学的還元なんてどえらい名前がついとるけど、「物の認識」に限って言うならスゴイ簡単なことなんや。

よーするに「感覚」「感情」「知覚」といったモンを「絶対の認識基準」とするしか方法はないちゅうことや。

現象学的還元

文字通り、「現象学的に」「元へ還る」わけです。例えば、物が目の前にあるとしても、「物を見ているという意識が働いている」と「意識の働き」の元へ還るわけです。
http://phanomemo.blog.so-net.ne.jp/2006-01-21

43 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 05:59
要点を言うと、

主観は「認識の対象」を、「対象そのもの」であるとの証拠を掴むことで認識するわけやない。

主観の内部で「確信が成立する条件」を得ることで認識するんや。

コーヒーの例でいえば「味覚」がその条件になる。

 

「確信が成立する条件」あるいは「不可疑が成立する条件」いうのが最大のミソや。

主観の内部にあるその条件を掘り起こす作業が「還元」や。
ほんまは「客観」なんつーのは主観の中で確信された「像」に過ぎないわけやのに、人は「客観」を「在る」ものと前提にして生活しとるだけのことや。

44 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/27(木) 06:00
>40
知的好奇心を充たす為だけの哲学なんかいらんわい。それは学生だけの特権や。
ワシはそんなヒマちゃう。知的好奇心も殆ど無い。

ワシが現象学的な態度をとる理由は、現象学が何と言うか「メリット主義」やからや
知的好奇心のないヤツでも色んなことで悩みはするやろ。
 
俺なんでこんなに貧乏なんやろ、とかな。
現象学を学べばそれが解決できる。とは言わん。

しかし、現象学的思考を体現すれば、自分の欲望の意味合いやその欲望と「現実」との関係を、聡明に理解することは出来る。

そしたら、自然に、自分がすべき次の行動がはっきりする。

「悩みが無くなる」ゆうのは「行動がはっきりすること」や。

 

しかし、現象学はその「行動」を例えばカントみたいに道徳的に定義するわけやない。

「行動」の意味、欲望の意味合いを自ら明らかにするだけや。

人間ゆうのはたいてい、ものごとの「意味合い」が分かれば、ナットクする生き物や。

>政治、経済、社会への影響

フッサールが、「全ての学は現象学の前に跪け」、みたいに誤解されるほどの大見得を切ったのも、故あってのことや。

ワシはそれほどのモンやとは思わんけど、わかるような気はする。
 
具体的に書けいうけど、それがどれほどたいへんな作業かくらいは想像が
つくやろ。現象学にその能力があっても、ワシにはないがな。
ただ、例えば政治の問題が、ワシにとって切羽詰ったこととして迫ってきたら
現象学的思考でもって対処する自信はあるな。
そやけど、今の世の中のことは殆どエポケーしっぱなしや。
ワシ、それでもなんも困ることあらへん(笑)
 

119 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/22(火) 07:21
現象学についてワシから一方的に話すと、どうしても「認識」とか「客観」
とかいうしみったれた哲学講壇になってまうから、読むほうも辛いし、ワシも
ちょっと後悔しとんねん。他にもやり方があったと。
 

現象学が何の役に立つのかわかりません。

例えば竹田青嗣なんかは現象学のことを

「現実的にはまったく不必要で非合理的な考え方だ

(略)

この考え方は根源的なのではなく、むしろいわば陰画的なのである。

すこし言い換えると、現実の関係が切羽詰ってどうしても道が無くなったときに、

くるりと現実が逆転して道が現れるといった、そういう非合理性、陰画性をこの方法は孕んでいる」

と言うとる。

実際、医学や科学のように、現象学が役に立つわけではないからね。

現象学精神分析とか、現象学的社会学とかないわけではないけど、
それが本当に現象学のエッセンスを含んでいるかといえば、これが全然なんやなぁ。
44でも書いたけど、

ワシは現象学を「メリット主義」やと捉えとって、それは、

様々な現象の「意味合い」(外側から定義されるものとは違って、自分固有の)を

まず問題にせなしょうがないっちゅう、思想というより「態度」やと思っとる。

竹田 青嗣(たけだ せいじ、1947年10月29日 - )

大阪府出身の、在日韓国人の哲学者、文芸評論家。
独学で哲学、現代思想を学び、特にエドムント・フッサール現象学に影響を受け、
現象学を〈思考の原理〉であると定義して独自の現象学を探求し、
俗に竹田現象学とも呼ばれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E9%9D%92%E5%97%A3

120 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/22(火) 07:21
例えば、オカルト話をひとつ。テレパシーっちうか、人の心が読めるという
自称超能力者がおったとしよ。ワシらはこの「テレパシー」いうもんについて
どう判断するやろ? 常識的に言って、そんなもんあるわけないというわな。
「テレパシー」があると断言することはなかなか勇気のいることや。何故かと
いうと自然科学の理屈に反するからや。そやから「テレパシー」についての判断
は、「絶対にある側」と「絶対にない側」にいつも二極化してまうんや。テレビ
見とってもいっつもそうやろ?
現在では、自然科学に対する底抜けの信頼感がワシらの価値観を支配しとるから
「絶対ある派」は普通馬鹿にされる。馬鹿にされるの嫌やから、公の場ではみん
な「そんなもん無い」といわなしゃーない。
でも、「テレパシー」って本当に無いか? あの時のあれは「気のせい」とか
「偶然」で片付けられることやったか?

現象学の態度の基本は「客観」という概念を取り払うことや。

概念そのものを取り払うんや。
そやし、「テレパシー」が在るか無いかなんてことは問題にせ
えへん。在るか無いかを問題にするゆうことは「客観という概念」を無意識
に想定したうえでの思考や。つまり形而上学的思考や。ニーチェが批判した
「真理への意志」や。
 
「神」とか「真理」とか「イデオロギー」とか、はたまた「記述の体系」の
一つにすぎへん「自然科学」などに身を委ねることで、ワシらの一番重要な、
日常生活の場での「感情」や「固有の経験」をスポイルしてしまわないようにする、、、、。
現象学的思考が何の役に立つのかと言われれば、まずはこういう風に答えるしかないな。
 

32 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/26(水) 04:17
ところで、ニーチェも「ホストモダン」も「命綱」を切り離した。
特に「ポストモダン」は切り離すことに懸命やった。一番の理由はマルクス主義
の崩壊や。あんだけ必死こいて考えつめた理論が役に立たへん。もう「理性」だ
の「思想」だのはあてにならん。形而上学はあかん。あ、そういえば昔ニーチェ
いうのがおもろいこと言っとったな、てなもんや。
しかし、連中はとにかく徹底的にやった。
9さんには悪いけど完全に証明して見せよった。
 
ワシの理解では現象学も「命綱」を切り離した。
そやけど「ホストモダン」と違う所は、「命綱」を切り離すのは原理的に間違ってへんけど、何で我々は言葉を使って他者とコミュニケート出来たり、目の前のコップを疑ったりせえへんのやろ? と考えたわけや。
それには必ず理由がある筈やと。自然科学が我々にとって利用可能性があることの理由はいったい何や、と考えたわけや。
その理由を原理的に問い詰める為には「命綱」を切り離さな意味ないんや。
そやないとその理由を、ありもしない「客観そのものという概念」に求めることになる。

 
結論を言えば、フッサールはその理由を、主観の内部にあるとしたわけやけど、それは「真理を基礎付ける」こととは違うで。

「真理」「客観」「世界」をすてて「本質(意味合い)」を、てなところかな。

とにかく、現象学の真髄はそこから始まる。

一旦、ここまで・・・・
少し寝ます(´Д⊂